被差別部落の頭領、弾左衛門。
歌舞伎の興行権から部落民の裁判権すら持っていたという彼の
起源は一体何者なのでしょうか?

また、部落差別は江戸の封建制の中に組みこまれていたと言いますが、
裁判権すら独立していたということは、江戸の表世界とは一種離れた
ところに独自の世界があったというような印象で、江戸の体制に
組みこまれていたというより、その特異な存在ゆえに利用されていた
というような印象を受けるのですが、どうでしょうか?
コメント一覧

>>183
白山神社と八幡様がセットになってるような気もするんですが。

宮田早苗2021-10-12 06:33:13

高橋七実2021-10-12 06:36:16

弾左衛門の末裔はどうなっているの?
氏は矢野?弾?
東大教授になってるとどっかの板で見た気がするんだけど。

舟山久美子2021-10-12 06:39:19

>>186
現在はどうか知らんが元々、矢野氏ですよ。
弾は明治になってから名乗ったみたいです。

中原伸之2021-10-12 06:42:22


【The Last】最後の弾左衛門【Danzaemon】
http://tmp4.2ch.net/test/read.cgi/rights/1095836135/

左幸子2021-10-12 06:45:25

Last Danzaemonワロタ

メル・テイラー2021-10-12 06:48:28

ドザエモン

神取恭子2021-10-12 06:51:31

あげ

小林健太2021-10-12 06:54:34

ここが噂のラスト弾左衛門スレ?
学生さんは実家で正月かな?

斉藤祐也2021-10-12 06:57:37

 所謂「韓流」の中心である冬のソナタの主題歌「最初から今まで」が、実は日本の80年代のヒット作 、
        
           雅夢の「愛はかげろう」のパクリである疑惑が浮上!! 

折しも安倍なつみが自身の楽曲盗作問題によって紅白を辞退し、
アーティスト活動におけるモラルが問われる事態となっているが、
Ryuも紅白を辞退せざるえないのか!? これでRyuが紅白にそのまま出場しちゃっていいのか?

 世の中的にはこの疑惑はあまり知られていない、もしくは問題として知られていません。
師走に入り、紅白歌合戦まで1週間を切った今、一人一人が真相をきちんと知り、
またNHKにもその真相を認識してもらった上できちんとした対応をとってもらいたいものです。

実際に聞き比べてみよう!
 以下のURLに、音声ファイルが公開されています。是非聞いてみて、ご自分自身で判断してみてください。
    
    同時に再生!:ステレオの左側が「愛はかげろう」、右側が「冬ソナの主題歌」
     http://49uper.com:8080/html/img-s/26373.mp3

    それぞれ再生:「冬ソナ」と「愛はかげろう」の比較。前半冬ソナ、後半愛かげ。
     http://www.yuko2ch.net/up/source/yp0040.mp3

ミック・ジャガー2021-10-12 07:00:40

藤原です
ttp://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/photo/danzaemon.jpeg

三遊亭歌武蔵2021-10-12 07:03:43

弾左衛門や被差別民を題材に卒論を書いた方いらっしゃいませんか?

奥川恭伸2021-10-12 07:06:46

由緒書に「時々御太鼓」とあったり「時之御太鼓」とあったりするのですが
どちらが正しいのでしょう。塩見さんは時之お太鼓で話を進めているようですが。

横山ノック2021-10-12 07:09:49

ショベル

池田真子2021-10-12 07:12:52


霧馬山2021-10-12 07:15:55


鳳蘭2021-10-12 07:18:58

>>113
何を思ってそんな大嘘書くんだろう。

鈴木福2021-10-12 07:22:01

日本製靴
リーガルの靴作ってますが
なかなかしっかりした会社ですなあ
たしかダン一族でしょ?

>>201
知らなかった。

長野静2021-10-12 07:28:07

>>202
軍靴の需要が拡大することを予感した弾直樹は、1871(明治4)年、3人の中国人を靴作りの指導者として雇った。
また、アメリカ人の製靴技師チャールス・ヘンニンゲルを雇用して、滝ノ川に皮革・靴伝習所を開いた。
ヘンニンゲルの指導の下に製造された造靴用の革はチャールスにちなみ「茶利皮」と名づけられた。
1872(明治5)年1月には隅田川に水利を求めて工場を浅草橋場町に移し、「軍靴12万足、十ヵ年納入」を受注すると製造工場を拡張し、靴工見習451名を募集して養成に熱中した。
こうしたことのために弾は膨大な私財を投資した。
江戸時代、三井と並ぶ江戸第一の大富豪と言われた弾左衛門家の財産も、この投資のためにほとんど使い果たされてしまうほどであったという。
しかし、十ヵ年契約は一年を待たずに中止となり、弾の事業は決定的な打撃をこうむった。
この理由については、戊申戦争の時に甲陽鎮撫隊に協力した弾左衛門に対する明治新政府の意趣返しではないかと推測される。
その後、三井の北岡文平が監督に入り、名称も「弾北岡組」と呼ばれるようになった。事業は製革と製靴に二分され、製靴部門は明治5年12月浅草亀岡町にある弾の邸内に移された。
結局、皮を集約する権限を奪われたことが決め手となって、1874年(明治7)、弾直樹の皮革会社は倒産した。
1871年(明治4)8月28日の太政官布告(いわゆる「解放令」)により、「ひにん」とともに「えた」の称は法的に廃止された。
ところが、この太政官布告後、被差別部落の生活はむしろ悪化していった。「解放令」の「身分職業共平民同様」は、士族らの皮革業進出を招来し、部落の皮革産業を危機に陥らせた。
その典型が、弾直樹の皮革会社倒産である。

チン・イェソル2021-10-12 07:31:10

甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)とは
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いに敗れた旧幕府軍は江戸へ退却した。薩長新政府は有栖川宮を大総督として東征軍を組織、東海道・東山道・北陸道から江戸進攻を開始した。
徳川慶喜は全権を勝海舟に委ね、上野の寛永寺に謹慎し恭順の姿勢を示した。新選組は、江戸城の全権を握った勝から、東山道より侵攻し来る東征軍を防ぐため甲府城を本拠地にした迎撃を命じられ、近藤勇は若年寄格となった。
新選組は江戸で新たに隊士を募集した。松本良順の呼び掛けもあって、弾左衛門の協力を得て人員を補強した。
ミニエー銃を中心とした新式小銃300挺で武装し、四斤山砲(大砲)2門を備えた総勢150〜180人の部隊は「甲陽鎮撫隊」と命名された。
当時、甲府は「江戸の西の要」として重要視され、甲府城は、江戸を防衛するための大要塞であった。
甲陽鎮撫隊は甲府城へ入城すべく進撃したが、一足早く板垣退助率いる官軍が、甲府城に無血入城した。
その報を聞いた、近藤勇らは柏尾に陣地を構築して官軍を迎え撃つ。官軍は各地で実戦を経験した猛者ばかりのうえ、アームストロング砲などの最新式の兵器を装備していた。
甲陽鎮撫隊は、官軍に惨敗し江戸へ潰走した。
近藤らに甲府行きを命じたのは勝による策略であったらしい。東征軍を甲府で迎え撃てと近藤らに命じた勝はその頃既に江戸城無血開城の準備を進めていたのである。
つまり、徹底抗戦を叫ぶ近藤らを江戸から遠ざけるのが目的だったのである。
塩見鮮一郎の 浅草弾左衛門が興味深い。

軍靴の需要が拡大することを予感した弾直樹は、1871(明治4)年に滝ノ川に皮革・靴伝習所を開き、
1872(明治5)年1月には隅田川に水利を求めて工場を浅草橋場町に移し、「軍靴12万足、十ヵ年納入」を受注すると製造工場を拡張し、靴工見習451名を募集して養成に熱中した。
しかし十ヵ年契約は一年を待たずに中止となり、弾の事業は決定的な打撃をこうむる。
巨費を投じた事業が頓挫して弾の晩年はさびしいものであったが、
病床で「数百人の靴工が巣立って全国に製靴法を伝えている。私の本望は達した」といってこの世を去っていったと言われている。
弾は皮革産業の基盤を築いただけにとどまったが、周辺には関連する企業が集まり、弾のもとから数多の靴工が育っていったのだ。

マーク・ノップラー2021-10-12 07:37:16

>>203
三井の北岡文平 って三井グループの事ですか?

やまじ2021-10-12 07:40:19

そうかリーガルは矢野か?

どうりで
いい靴だと思った。
皮というものを良く知っているんだな。

あれだけだ、
半年持つのは。